知ることは愛のはじまり。
赤塚さんから教えてもらった「言葉」は他にもたくさんあります。そのうちのひとつ。
知ることは愛のはじまり。
本当、そうだなってしみじみと最近思います。

もっと知りたいな。何があったんだろう過去に。どんな想いを持ってるんだろう。
自分以外の周りの人でも、それは国でも。もちろん自分でも(だいじー)。
知っていくことで愛おしさが増えていきませんか。
パラオ ペリリュー島へ到着
の続きです。赤塚さんのDVDを拝見して、
★自分の目で、赤塚さんが語っているものを見たい。
★自分の心で、赤塚さんが語っているものを感じたい。
★パラオのこと知りたい。パラオを通して、日本のことを知りたい。
もっというと、自分のことをもっと知りたいにも繋がるのでしょうね。

猛スピードで走るのですが、目が機能しないくらい(笑)の風圧。

僕も行きたい。
ペリリュー島には現在、700人ほどの住民がいるそうです。


ペリリューの戦い
ペリリューの戦い。
1944年9月15日から11月27日にかけて、パラオのペリリュー島で日本軍とアメリカ軍が行った戦闘。

1941年大東亜戦争(第二次世界大戦の局面の一つ)時。
日本はパラオを重要な軍事拠点のひとつとして、ペリリュー島に2本(長さ1,200m、幅80m)に交差する滑走路を持つ飛行場を作りました(当時、東洋一と言われていたよう)。
このペリリュー飛行場の上を車で通りました。今でも使われているのだって。
日本本土を目指して侵略を進めていたアメリカ。そのアメリカ海軍のニミッツ提督が、ペリリュー島へ攻め込むことを計画し実行。
軍医「上島先生」と赤塚高仁さん
この戦争で軍医をしていたのが「上島英義」先生です。
この戦争で生き残られた上島先生。
上島先生がご生前時、赤塚さんは上島先生のお家で「ペリリューの砂」を見つけ、その時はまだ、ペリリューの戦いのことを何も知らなかった赤塚さん。
赤「先生これはなんですか?」
上「オレンジビーチの砂だよ。」
赤「へぇ、オレンジビーチ。それはとってもロマンチックですね。」
上「そうかロマンチックか・・・」
と、上島先生は遠い目をされたまま、この時多くを語らずだったそうです。
そんな上島先生がお亡くなりになった後、上島先生の娘さんから赤塚さんはペリリューであった戦いのことを聞くこととなったようです。
※ちょっと細やかなところまではあっていないかもしれないのですが、詳しくはぜひ赤塚さんのお話を直接聞きに行くか、DVDを見てね♡w
兵士の血で染まったオレンジビーチ

オレンジビーチ。ペリリュー島の戦いの幕が切って落とされた場所。
日本軍は約1万名。それに対して、アメリカ軍は約5万名。圧倒的な差。5倍。
アメリカ軍は当初、「3日程度あればこの戦いは終わらせられる。簡単。」と予想していたそうです。それが、73日。
3日が73日だよ。
この圧倒的な戦力の差で、アメリカ軍が3日で落とせると言ったこの状況で、結果的に「サクラサクラ」と電文をうち日本は玉砕を決定するのですが、日本軍は73日も持ちこたえました。
このオレンジビーチでの戦いは、壮絶だったそうです。このビーチから先、陸に上がってこないように日本は必死に戦ったのでしょう。初日で、アメリカ軍210名の死者。
海兵隊がコードネームとして、オレンジ1、オレンジ2・・・と砂浜を区切って、呼んでいたそうです。そして・・・実際に、この砂浜は多くの兵士の血で染められ。
その名の通り「オレンジビーチ」に。

私はペリリュー島では一切怖くなったり(あ。嘘だ、ちょっとしたな。)、ザワザワって何かを感じたりすることはほとんど無かったのですが、このビーチでも胸騒ぎがしたり何かを感じる人はいるようですね。
とっても綺麗な海にサラサラの砂浜。
でも、そんなに遠くない昔に(だって人ひとりの一生くらい)ここにたくさんの兵士さんが横たわって、血に染められた砂浜が、そんな光景が実際にあった。・・・想像するとグッと胸のあたりがなりますが、でもやっぱり本当のその時のその場所なんて想像しきれないのだろうな。壮絶な戦い。想像しきれないのだろうな。
あとで調べていて見かけたのですが、ここではアサリやカニなどいるけれど、ペリリュー島に住んでいる人は採って食べることはしないそうです。海水浴もしない。
日本兵は一生懸命戦いましたが、圧倒的な兵士数の差。
このオレンジビーチから先の侵入を許してしまうこととなります。

中川州男大佐が守ったもの
この壮絶な戦い(と、言葉にしても、言葉にしきれないくらいですよね)の中で
・日本軍 10,695名
・アメリカ軍 1,794名
という戦死者がでました。
だけれど、一般人民は死者・負傷者ともに0とされています。パラオに住んでいたパラオの人たちは助かったようです。
なぜか。
この戦いを指揮していたのが「中川州男(なかがわくにお)」大佐。

日本が統治していたパラオ。パラオの人と日本人はとっても良い関係を作り上げていました。ペリリュー島が戦場になることを予想した日本軍は「パラオの人たちを巻き込んではいけない」と判断し、疎開させることに。
その時に、パラオの人は中川大佐に「日本と一緒に戦わせてほしい」と言ったそうです。が、中川大佐は
「帝国軍人が貴様ら土人と戦えるか!!」
と大声で怒鳴りつけたそうです。
あんなに仲良く一緒に過ごしてきたのに、仲間だと思っていたのに・・・
あぁ、そうか、やっぱりそんな風に見下していたのか・・・
パラオの人はビックリし、失意の中、島を離れることにします。パラオの人が全員船に乗り、出発。そんな時にも日本兵は誰もお見送りにこない。
どんな気持ちだったでしょうね。パラオの人。
だけれど、船が出発して少しした頃、中川大佐とそのほかの日本兵が現れます。手を振り「元気でな。元気でな。」と優しい顔でパラオの人を見送ります。
そこで、パラオの人は「私たちを助けるためだったんだ。」と気がつきます。






触ったけれど頑丈で、ポロってサビ落ちたりもしない。

これは3人乗りなんだって。





でも偶然なのだって。すごいよね!
ご一緒させてもらった方の中に廣田神社の方がいらして。私、写真撮った時は、まだその方とお話してなくって、でもたまたまこのお守りが気になって写真撮っていて、帰国してから気が付いてお聞きしたら教えてくださりました。ご縁、嬉しい。
廣田神社(青森県)このページの「お守り袋デザイナーズ」
可愛い。欲しい。(笑)

丸い目は、帰りたくても帰れなかった日本の方に。



photo by ためさん
終焉の地 サクラサクラ
日本は玉砕を決定。
軍旗を焼き、動けるものは突撃、動けないものは自決。
「サクラサクラ」と電文をうち、中川大佐は割腹。

車を降り、ここからは歩いてしか行けないので。とのことで、みんなでジャングルの中を歩きました。しばらく歩きまずはここまできた。


本当の「中川州男」大佐 自決の地
そして、実は中川大佐が自決したのは、ここからまた先、とのこと。
つい最近、道が出来たので・・・と聞いた赤塚さん。「そりゃ行っちゃうでしょ」と後から冗談めかして言っていましたが、みんなで本当に行きました。
赤塚さんも知ったばかりの場所。赤塚さんも足を踏み入れたことのない場所。へ、56人みんなで。

道ができた・・・?と言っていたけれど、道とは言えない・・・と思う・・・(笑)あれは(笑)
途中木が倒れてたり、つかまるもの何もないのにゴツゴツの岩を超えたり下ったり。つるんと滑ってもおかしくない足元。ふかふかのコケ。誰か転んで怪我してもおかしくないくらいの道のりでしたが、みんな無事にたどり着いたようです。




病院として使っていた洞穴と上島先生

なんと、すぐそばには病院(?)として使っていた洞穴が。

私は入らず待ってましたが、赤塚さん率いる数名は中へ。狭い入口ですが、中は広く空間が広がっていたみたいです。


そのまま進み、また別の穴から出てきました。
ここが病院として使われていたということは、赤塚さんと交流があった上島先生はここに。
「赤塚くん、よおきてくれたな」って上島先生は言ってくれてたよ、と教えてくれました。
上島先生は、生き残り日本に帰ってきましたが。どうやって帰ってきたかというと。

私たちがモーターボートで1時間かけてきた道のりを泳いで。4日かけて。島影から島影へ。見つからないように。11人が「ペリリューに支援は無用」と書いた手紙を体に巻きつけて。11人のうち、4人が本島にたどり着いたのだそうです。

ペリリュー神社で岡田宮の宮司さんとお祈り
ペリリューには神社があります。

なんと、ご一緒くださっていた岡田宮(福岡県)の宮司さんに導いていただいて、みんなでお祈り。


こんなことってないですね。とってもすごい方々と、すごい所で、すごいことをしているのだなって。だってここ、日本じゃないのに。
56名、赤塚さんの合図で、ビシッと二礼二拍手一礼を合わせました。


そして、先に書いた、あの、ペリリュー島を攻め込むと決めたアメリカ海軍のニミッツ提督が残した言葉、が刻まれた石碑。
諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ。
敵国の兵士にこんな言葉を残す、くらいの戦いざまだったんだなって。

ご一緒させてもらっていた、中島さん。中川大佐がこの戦いの時の年齢と同じ年齢の今、とのこと。敬意を表して制服できてくださった。とっても暑いし、あのジャングルの中も。
ちなみに(笑)私のTシャツ、この日の前日にパラオのWCTCショッピングセンターでGETしたパラティー(パラオのTシャツ。笑)♩WCTCは、コロールいち大きいショッピングセンターなのだって。
ふと後ろを見ると涙で顔を濡らしている人もいたし、静かに体を震わせて泣いている人もいたり。
なんか、こんなの当たり前だけれど、みんなそれぞれに何かを感じてるんですよね。みんな何かを胸に抱えてここに来たんだよね。
私。私は、先に書いた通り(笑)怖がりなもので、怖いことはほとんど感じず。

感覚の人なので何か色々感じるかなと思ってたんだけれど、怖がりな人にはそうゆうの(どうゆうの?笑)見せないのでしょうね。(笑)シャットダウンしてる感じでした。
私は涙も流れず。感情的になることはありませんでした。
ただ、今私ができることって何だろう。
今の私の光でこの場を包みたい。光で包みたい。そう思って、深呼吸していました。


海軍航空隊司令部 廃墟




と、そばにいた方が呟いた。







「あらまぁこんなところで奇遇ねぇ」って赤塚さんと文昭さん(笑)


赤塚さんといくパラオ
日本はええ国か?日本はええ国になったんか?
赤塚さんはペリリューに行くとそう聞こえるそうです。
今は緑で茂っている島も、一度は戦争で焼け野原。私たちの先輩日本人の方はこの島に連れて来られて、何かのために戦いました。一人一人違うのかもしれない。自国のため。自分のため。家族のため。パラオのため。友人のため。
上島先生は生き延び帰ってこられましたが、こう話していたそうです。
弾が飛んでくるんや。次は自分かなって思うんやけど全然自分にあたらん。みんなで必死に走って、周りは次々に倒れていく。
「軍医どの!大丈夫でしょうか。」「大丈夫でしょうか。」「私のきんたまはちぢみあがってないでしょうか」って聞いてくるんや。
「大丈夫やで大丈夫やで」って言ったんや。日本の兵隊は美しいんやで。
もう死んでしまうのに、誰も見てないのに、最後の最後まで、ソレを大切にして、何かに忠誠を尽くし強い心を持ったまま終えようとした日本の兵隊さん。
一体どんな気持ちで戦って最後を迎えたのだろう。
いくら考えたって、ほんとのソコまでなんて辿りつけないんだと思うのです。だって、もう絶対的に経験してるものが違いすぎて。
でもそうゆうことを知ってパラオの人が日本のことを愛してくれているということ、日本人はあまり知らないですね。パラオの人は知ってるのに、日本人は知らない。教えてくれる人いなかったな。
本当のこと、っていうと、なかなか難しいけれど、でもそこに近いことにもっと触れていけたら。もっともっと日本人は日本のことを誇りに思えて、自分のことも誇りに思えて、自分のこと好きに思えるんじゃないのかな。
おんなじ血が流れてる。意味あって日本に産まれたり、日本で生きてる。
知ることは愛の始まり。
今回連れていってくれた赤塚さん。パラオだけではなく、イスラエルを通した日本のお話もしてくださります。他にもロケット博士、あの「はやぶさ」の糸川さん(赤塚さんの恩師)のお話とかも。多岐に渡って。

赤塚さんが「伝えたいことがたくさんあるんや。時間が足りない。」って言っているのを、何度も聞きました。

僕がフレンチフライかは分からない。笑
だって似たワンちゃん4匹くらいいたんだもん。笑
パラオのお話も、ここには書ききれない物語がたくさん。ぜひ、直接お話聞いてみてくださいね。講演会などでも話してくれます。パラオのツアーも毎年やられているみたいなので、ぜひぜひ、赤塚さんのツアーじゃないと味わえないパラオがあるので、もしこれで「私も行ってみたい」って思われたら、絶対行った方がいいです。赤塚さんと。
行けるときに行ってください。行けるときはいつまでもありません。
旅はどこに行くかじゃないよ。旅は誰と行くかだよ。
って赤塚さん、よく言ってます。そして、「その土地に行くことになった人は、その土地に呼ばれているんだよ。」って。
呼ばれているんだとしたら、さて。何ができるでしょうね。

56人、バラバラに集まってきて旅したけれど、どこかでやっぱり繋がってるんですよね。不思議だけれど。そんなこと感じるご縁ばかりでした。一緒に行った人の分までストーリーを感じられる。
私、完全1人で参加したから、赤塚さんには1度お会いしていたけれど、その他の方はみーんな初めまして。4泊5日しか一緒にいないのに、なんかすごく強く繋がっているような気がする人ばかりで、帰国してからも会いたい人ばかりです。
ツアー情報などは、下記からチェックしておけば大丈夫なはずです〜★
正確な情報をと思って慎重に書きましたが、何か間違えているかもしれません。(笑)その時はそっと教えてください。(笑)
(続く。かも。)
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