こんにちは。増田ゆきです。
先日、7月4日から8日の間に初めての海外、パラオへ行っていました。

なぜかというと・・・6月にこのデザインを担当させてもらった・・・

赤塚高仁(あかつかこうじ)さん主催のツアーでお勉強をさせてもらいに。

赤塚高仁さん、中村文昭さん、
武田数宏さんを筆頭に。なんと60人近くの仲間★

パラオ、ペリリュー、何も知らない私でしたが、赤塚さんのブログデザインをさせていただく際に赤塚さんが贈ってくださったDVDを拝見して。
そこでペリリュー島でその昔(今から75年前)起こった、日本の歴史を知りました。

左:本「ヤマト人への手紙」/右:DVD「やまとのこころ」二本

何も知らない。日本の土地以外で起こった日本のこと。
日本の先人の方の優しさと強さ。日本人が命をかけて守ったもの。

DVDを見ながら涙がポロポロ流れました。あっとゆうまに二本、見終えて。
次の日の朝、赤塚さんにメッセージを送りました。

第一次世界大戦後、パラオは日本が統治することとなりました。
それまでは1885年スペインの植民地として、その後ドイツの植民地に。統治ではなく植民地。
この植民地時代にパラオの人口は90%程度減少してしまったり、とあまりいい状態ではなかったようです。

国際連盟によってパラオを統治するように言われた日本が統治するのですが、その時に日本がしていたのが、これが「しらす」。逆は、力による支配「うしはく」。

この統治していた時代に、先代の日本の人たちはパラオの人ととっても良い関係を築いてきたようです。私は赤塚さんのお話を聞いて、映像のようにイメージが湧きました。

一緒に学校のようなところで学び教えている様子。
一緒にビールを飲んでる様子。
肩組み合って笑っている様子。

ペリリュー島のオレンジビーチ。

パラオではパラオ語と英語が公用語。そして、その中に日本語もまざっています。それを「ジャパラオ語というんだよ」って言ってたかな(たしか)、ガイドさん。(ジャパン語とパラオ語がまざってる言葉)

「ダイジョウブ」はそのまま大丈夫。

※大丈夫なときは、「ダイジョウブ!」(*´∀`*)ノ。+゚ *。
大丈夫じゃないときは、「ダイ・・ジョウブ・・・」(>_<)
と言えばいいと、ガイドさんが言っていました。(笑)

「ベントウ」は弁当。ランチじゃないんだよ。
「ツカレナオース」はビールを飲むこと(笑)
「ショウトーツ」は乾杯(笑)
「チチバンド」は・・・ブラジャー(・-・*)

そんなパラオ(palau)。ミクロネシアの小さな小さな国。面積は屋久島と同じくらいだそう。なんとそんなパラオには500以上の島があるんだって。

※ちなみに、島の定義は「満潮時でも水面から出ていること」と「自然に形成された陸地」と「水に囲まれていること」。

日本との時差はないのでとっても行きやすいです。
昔は日本からパラオへの直行便があったそうですが、日本からパラオへ行く人が減ったために今(2019年7月)はなく、私は韓国(仁川空港)を乗り継ぎ8時間くらいかけて行きました。
が、なんだか悲しくてガイドさんに聞いてみたら、また「今年か来年あたりに直行便スカイマークエアラインが復活就航する予定」なのだって♡
とっても嬉しい。

そんなパラオ。この時期は雨季(5月〜10月)のようですが、雨に降られることはほとんどなく。降っていても、ジャングルの木に守られて?打たれなかったり、船の上で気持ちよく体にあたるくらいでした。
パラオ、着いた瞬間からジメーットした蒸し暑さありました。なんと、紫外線は日本の7倍ほどとのこと(▼-▼*)
お金はUSドルだよ。

とってもとっても詰まった(スケジュールも物語も出会いも感情も)この4泊5日。

パラオの人はとっても親日のようです。日本の統治時代に日本人がパラオの人と築いたものがあるから。(とまだあるの。だけれどそれは後に順番に書くね。)日本人のことをとても好きでいてくれているようで。そうは聞いていましたが、私自身がその場へ行き、自分自身でも感じました。

宿泊したパレイシアホテルで毎朝、美味しいオムレツを焼いてくれたTONY(トニー)。

朝、1人でお散歩していたらたくさんの人が「モーニン」って挨拶してくれました。
その中の1人、MONさんは、「ジャパニーズ!日本語ちょっと分かる」と言ってくれ、しばらく歓談しました。私の名前を聞いてくれ「ゆき。YUKI。」というと「おー!スノー!ゆき。グッドネーム!!」となんども言ってくれました。

MON 「フラッグ ジャパン SUN パラオ・・・」
MON&YUKI 「ムーン!」🌝

と意気投合しました(笑)
パラオの国旗は、日本の国旗にすごく似ていて。日本は太陽ですが、パラオは月なのです。青色背景(海)に黄色い月。日本を大切に思ってくれて、月の丸の位置を、真ん中から少しずらしたと言われているよ。

MON(もぬ)

ペリリュー島のトイレで長蛇の列の最後尾に並んでいたら、少し離れたお店の店員の女性が小走りでわざわざ来てくれて「こっちのトイレつかっていいよ。おいで。」と案内してくれました。
そのあと、私たち何人かでそのお店の中の商品を見て楽しんでいたのですが、その最中もニコニコと私たちを見てくれていて。目があったら、「そこの日本語のガイド本持っていいのよ」と教えてくれました。
なんだか愛おしくて。帰りに握手してもらいました♡

※全部、本当は英語で言ってくれているので、ざっくりな解釈です(笑)

そしてね。

なぜ赤塚さんがパラオのガイドしているのか。なぜ赤塚さんが引率するパラオ旅にみんなが着いて行くのか。
それはね。赤塚さんじゃないと案内ができないこと。話せないことがあるのです。

それは、1944年9月15日から11月27日にかけて、パラオのとある島、ペリリュー島で起こった「ペリリュー島の戦い」のこと。

今回、海がとっても綺麗で「南国のバカンス!」というようなパラオで、学びにいったのは、慰安に向かったのは、何かを知ろうと感じようとしたのは、「ペリリュー島の戦い」のことを現地で赤塚さんから直接聴きたいと思ったから。赤塚さんが語っているものの本物を見たいと思ったから。赤塚さんが感じているものの本物を見たいと思ったから。

60人がそれぞれに自由に感じた、大切ななにか、を持ち帰って来たのは、「ペリリュー島の戦い」のことを現地で赤塚さんから直接聴けたから。

今も頑丈に残る戦闘機。触ったけれど頑丈でした。ポロっともならない。

赤塚さんでないと話せないこと。
それはペリリュー島の戦いで、当時その戦いを経験し生き残って帰って来た、軍医「上島英義」先生と赤塚さんは交流があり、上島先生はもう亡くなられているのですが。赤塚さんが上島先生のことを、上島先生を通して感じたペリリュー島で起こったことを、語り繋いでくださっていること。

みたま。慰霊碑。

ネットで探せばたくさんの記録が出てきます。本当のことも知れます。でも。当時、その場にいた人の話を「直接聴いた人」「聴いて何か感じた人」のお話はなかなか聴けません。時が流れていくほどに。
本当は、当時、その場にいた人の話を直接聞ければもっと良いのですが、それは叶わないとき、それを語り繋いでくださってる方(それが赤塚さん)のお話はまた貴重でありがたいことですね。

自分は知らないこと。体験した人→体験した人の身近にいた人。から自分に。

そんなことを赤塚さんはたくさんお話してくれます。してくれました。

人生が変わる聖書漫談師 赤塚高仁さんのブログ:
「イスラエルのユダヤ人に教わった日本の真実」

(次回へ続く)
続きアップしました。こちら。


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